味で食べる地元、頭で食べる東京
たった3週間だが泊まり込みで宮城県にいたことがある。
転職の合間に、せっかくなら他県で働いてみたくなったのだ。
石巻市で短期の募集があり、こんぶ、めかぶ漁をしている方々のところでお世話になった。
寮はとてもきれいだった。
つまり、新しかった。
311の被災によりこの辺りの建物が壊れてしまったことを意味した。
寮ではすべて自炊だ。
あらかじめスーパー(車で片道約45分)で米や調味料の類と、日持ちしそうな根菜類を買っておいた。
家具・家電類は一通り揃っていて、さすが東京では金持ちのファミリー層でしか見たことのないくらいばかでかい食器棚とキッチンである。
シンクなんて都心のワンルーム7万円のマンションの手を洗うにも飛び散ってしまうような極小で最弱なシンクが5個分入りそうなくらい大きい。東京での賃貸のシンクにほとほと嫌気がさしていた私には、ここでは料理がどんなにか楽しいだろうと思った。
そして、運命の炊飯器に出会うこととなる。
初日、仕事が終わり夕飯の準備を始めた。
簡単なものでいいやと思った。初日は少し気疲れする。新しいことばかりだから仕方がない。
まずお米を仕掛けよう。
米を研ぎ、炊飯器にセットする。
やはり炊飯器もばかでかい。私が食べる分のたった一合が釜の底のほうにちんまりと佇んでいる。
蓋を閉め「お急ぎモード」で炊く。お腹が減った。
とにかくなんでもファミリーサイズなキッチンで、適当に炒め物と煮物を作っているとご飯が炊けた。
お米を返そうと蓋を開ける。
とたんに湯気が一斉に顔に向かってきて、同時に、お米の甘くてほこほこな香りが全身に充満した。なんて幸せな香りだろう。
湯気が逃げたあとに姿を表したお米たちは、まるでダイヤモンドの親戚みたいにキラキラと艶めいていた。お米一粒一粒が爪先立ちしてこっちを見ているようで目が離せない。
なんだこれは。
もう蒸らすとか、どうでもいい。
とにかく、しゃもじのままほうばった。
熱い。口内から湯気と共に鼻腔へ駆け巡る炊き立てのあまい米の香りが、米自身から次々と産出され永遠に止まらない。
舌触りもつるつるして、噛み締めるたびに米粒ごとの弾力が伝わってくる。
う、うますぎる!
その日、ついに1合では全く足りなかった。
あくる日も、その次の日も、たくさんお米を炊いて、ほうばった。
おかずはなんでも良かった。もう漬物が3かけあれば茶碗一杯平らげられるくらい、ごはんの虜になった。
「日本人はご飯が主食」とはこのことか。
おかずをいくら豪華にしてみても、しょせんこのご飯のしあわせさには敵わないのだ。おかずのことを「副菜」と呼ぶ意味が心の底から理解できた。
しかし、東京でも自炊をしているが、お米をこれほどまでに美味しく感じたことはない。
たまに奮発して高級な銘柄を買ったりもするが、べつものだ。
果たしてなにが違うのか。
続く