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2月

豆まきは意外と新しい!実は長い「イワシを食べる文化」

豆まきって新しい文化なんだ!?

そうじゃな!
節分において、もっと長く続いている風習があるんじゃよ。
今回は、豆まきの意外な歴史と、それよりも前から行われていた「イワシ文化」について掘り下げてみようかの!

そもそも「豆まき」はいつから始まったの?

豆まきの起源をたどると、なんと奈良時代(710年~794年)までさかのぼります。ただし、今のように「家で豆をまく」文化ではなく、もともとは宮中で行われていた儀式でした。

・平安時代の「追儺(ついな)」が原型!

平安時代になると、「追儺(ついな)」という宮中行事が行われるようになります。
これは、疫病等をもたらす鬼を追い祓い災厄や邪気を除く、神道の行事です。

中国から伝わった「鬼払いの儀式」が元になっており、弓矢や祝詞(のりと)を使って邪気を払っていました。この儀式の中で、豆のようなものを使っていたのが、のちの豆まきのルーツとされています。

・江戸時代にようやく庶民に「豆をまく」文化が定着!

実際に「豆をまいて鬼を追い払う」という形になったのは、南北朝時代(1336年〜1392年)に始まります(諸説あり)。
室町時代(1336年〜1573年)には、今の豆まきに近い形が確立され、寺社や武家を中心に広まっていきました。

しかし、庶民が節分の時に豆をまくようになったのは、さらに後の江戸時代(1603年~1868年)になってから!
つまり、日本の歴史全体で見ると、豆まきは意外と「新しい文化」なんです。
   

一方、「イワシを食べる文化」はもっと古かった!

一方で、「イワシを食べる文化」は、なんと平安時代よりも前からあったとされています。

・平安時代にはすでに「柊鰯」の記録が!

平安時代の貴族の記録には、「焼いた魚の頭を門口に掲げ、鬼を払う」という風習があったことが書かれています。この魚こそが、現在の「柊鰯(ひいらぎいわし)」の元になったイワシ!

なぜイワシなのか?

それは、イワシの強烈な臭いが鬼(邪気)を寄せつけないと考えられていたからです。また、柊の葉のトゲも鬼の目に刺さるとされ、「玄関に飾ることで鬼が入れなくなる」という考え方が生まれました。

イワシの魚群
日本近海で昔から大量に獲れたイワシ。宮中では鯔(ボラ)の頭だったそうだが、民間に取り入れられるようになりイワシの頭で魔除けをしたそうだ。

・ 「イワシを食べる文化」は農耕社会と深く関わっている!

日本は農耕社会だったため、季節には敏感に過ごしていました。
そのため「季節の変わり目に邪気を払う」という考えが強くありました。イワシは庶民にとって手に入りやすい食材であり、焼いたイワシを食べることで「体の中の邪気を払う」という意味も込められていたのです。
  

玄関の魔除け
玄関に飾られた魔除けのひいらぎいわし

  
  

江戸時代になってようやく「豆まき文化」が庶民に浸透した!

つまり、庶民の間では「イワシを食べる文化」の方が先に根付き、それよりも後に「豆まき文化」が定着したのです。

豆まきが一般の家庭にも広まった江戸時代になると、寺社での節分行事が盛んになり、「福豆」として炒った大豆を売る商人も登場しました。

特に、商売繁盛を願う町人たちの間で人気が高まり、「福を招くために豆をまこう!」という考えが広がっていったのです。

しかし江戸時代はまだ「柊鰯」の風習が根強く残っており、「豆まき」と「イワシ文化」が併存していた地域も多かったようです。

現代でも、伝統を重んずる家庭では、玄関に柊鰯を飾っているようです。
  

まとめ:実は「イワシ文化」の方が先だった!

こうして見てみると…

✅ 「イワシを食べる風習」は平安時代より前からあった!

✅ 「豆まき」のルーツは平安時代の宮中行事にあった。しかし今とは違う形式であり、江戸時代に豆を撒くようになり、ようやく庶民に広まった!

✅ 江戸時代までは「豆まき」と「イワシ文化」が共存していた!

つまり、節分の行事としては「イワシ文化」の方が歴史が古く、「豆まき」は後から形を変え広まった比較的新しい風習だったんですね!

これを知ったうえで、今年の節分は「豆まき」だけでなく「イワシを食べる」ことにも注目してみてはいかがでしょうか?

みなさんの地域では、イワシを食べる風習はありますか?コメントで教えてくださいね!
  

おまけ:南北朝時代に活躍した武将3選

「豆をまいて鬼を追い払う」という形がはじまったとされる南北朝時代(1336年〜1392年)。

南北朝時代は戦乱の時代だったから、たくさんの武将が活躍したよ。
特に有名な3名をご紹介!
   

・楠木正成(くすのき まさしげ)

後醍醐天皇(南朝)に仕えた忠臣。
奇策やゲリラ戦を得意とし、「智将」として知られてるよ。

千早城の戦い(1333年)では少数の兵で幕府軍を翻弄し、鎌倉幕府滅亡に貢献したけれど、湊川の戦い(1336年)で足利尊氏に敗れ、自害してしまった。
   

・足利尊氏(あしかが たかうじ)

もともとは、鎌倉幕府の有力御家人…だった人。
しかし!後醍醐天皇に反旗を翻して幕府を倒しちゃう。
その後さらに!今度は後醍醐天皇と対立。

最終的に京都に新たな朝廷(北朝)を立て、室町幕府を開いた人物だよ。南北朝の戦いの中心人物の一人だね。

・ 新田義貞(にった よしさだ)

後醍醐天皇側(南朝)の武将で、足利尊氏と同じく元は鎌倉幕府の御家人。
幕府を倒すために挙兵し、鎌倉攻め(1333年)で活躍したよ。

その後も南朝方として足利軍と戦い続けたけど、敗れて討ち死にしてしまった。

————

以上、南北朝時代に活躍した武将3名のご紹介でした!
この時代の武将たちは、単純な「正義 vs 悪」ではなく、それぞれの立場や忠義、野心が絡み合っていた様子。歴史物語としては興味深いけど、当時に自分がもし生きていたらとおもうと…恐ろしい!

武士の姿
武士のうしろ姿。漂うのは殺気か哀愁か…。

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