
八百屋と私。
近所にまた八百屋ができた。
歩いて5分で3軒になった。
スーパーだけでも徒歩10分圏内に、ざっと思いつくだけで6軒。きっとそれ以上あるだろう。
八百屋もスーパーも各店ごとに特色が違い、住み分けができている。
難点は、魚はどこも弱いというところ…。
ほとんどが冷凍品で、生鮮も大体サケかサバ。しかも海外産。日本は島国で360度が海で美味い魚はいくらでもいるし漁業の技術や〆る技術、美味しいまま流通させる術も持っている。それなのに…このラインナップになぜなるのか嘆かわしいよ。反面、肉売り場は、ぐるりと広いね。
私は富山県の漁師さんから直接購入し送っていただいているから極上の魚介が摂取できるが、このあたりに長く住んでいる方々は一体全体どうしているのだろうか…。まあ、一般的に高級住宅街といわれるエリアなので、魚が食べたけりゃ外食するのかもしれない。知人で寿司好きの証券会社法人営業マン(これは死後らしいが)いわく、東京中の寿司を食べまくっているがこのエリアが日本一寿司が高いという。(住所特定されるかな?しかしもう引っ越しが決まっているので構わない。)
高級住宅街エリアというのを自慢したいわけではないのだが、単に、このような街に短期間でも住めたことが、自分にとってはいい経験で、嬉しいのだ。それにしても派手すぎないのにいつの時代にも「洒落た家だ」と感じられるのだろう一軒家が、ちょっと裏手に入るとずらりと並ぶ。空気が変わる。まるで風の通り道まで設計されているかのように、髪が穏やかに撫でられていく。さっきまでトラックやバイクの急ぐエンジン音に耳を覆われていたのに、道をたったの一歩違っただけで、全く別の領域に入ってきてしまったような。今、ウニの濃厚クリームスパゲッティを食べていたはずなのに、いきなり清流の水そばに変わってしまった場合の、体の中の準備が追いつかない時みたいだ。しかも水そばのほうは冷たくよく透き通った清流が用意されているだけでなく日本産の古くから育つ品種のそば粉を10割使用し、親子代々100年続いている秘伝の手打ち法で打たれた麺で供出された、よく冷えた水そば。
この街が、好きだ。
ここに一軒家を建てられるような力は私にはないが、好きになるのは勝手だ。たまたまご縁で、賃貸の部屋が空いた。そしてこの街に少しだけお邪魔できた。ただ、それだけだ。
好きな街に身を置けた、そして好きな街が増えた。ただそれだけなのだけど。
——

八百屋は増えても、お気に入りの八百屋は相変わらず1軒だけ。
この八百屋は、いつ行っても、生き生きしている。
野菜たちから生命のパワーを感じる。店に一歩入ると、野菜たちは一斉に、こちらに向かって輝いてくるのだ!
しかも野菜だけではない。働いている人間が生き生きしている。店の活気が、この人たちから生み出されている。家族経営なのだろうか?いつもレジにはお母さんが立って、たまにお嫁さん。品出しのリーダーはお父さんで、お父さんはいつも大声で「はーい、いらっしゃい!」という。
そしてこの店の一番好きなところは、帰り際だ。
生き生きした気持ちいい店だからか、やはりお客さんも多くて、時間帯によってたまにすごく混む。お母さんもいつもより急いでレジを打ち込む。お父さんもあっちやこっちやと品出しに追われている。とにかく忙しくて、早送り再生みたいになる時がある。
それでも。
誰かお客さんが店を出る時、
皆が顔を上げて「ありがとうございまーす!」
というのだ。
作業の手は止めないかもしれない。
でも、その場にいるお店の方々全員が言ってくれる。しかも顔を上げこちらを見て。
だからこちらも、思わず「ありがとうございました!」と言ってしまうのだ。
新社会人のような女性や、バリキャリ系の姉御、謎のお兄さんなど多様なお客さんたちも、帰り際に思わず何かしら返事をしている。例えば「ありがとうございました。」とか、「どーも。」とか、人それぞれだが、何かリアクションをする人が大半だ。
そんな、人間同士の当たり前のやりとりなのだが、感動する。
当たり前のはずのやりとりなのに、そんな光景を目の当たりにできて、胸が熱くなる。
だからこそ野菜たちも何かを感じて、私たちに向かって輝きだすのだろうか。
野菜も、生きているから。野菜にとっても、心地のいい空間なのだろうか。
お父さんだけは、「ありがとうございまーす!」の後にいつも決まって、
「またお願いしまーす!」という。
顔は、やはり上がっている。

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